書評:吉村萬壱『クチュクチュバーン』

書評サイトでもないのに突然書きますが、まあ好きにさせてください。

吉村萬壱さんの『クチュクチュバーン』というSFで、後半に人間の進化の一形態としてシマウマ男というのが出てきます。

地球のあらゆるものがぐちゃぐちゃに融合して、終末(あるいは始まり=クチュクチュバーン)を迎えようとする時に、とにかくそのシマウマ男は、そのわけのわからない現場を見続けることを自分の使命と感じていて、『俺達の使命は、見ることだー!』と叫びながら、とにかく最後の最後まで世界の行く末を『見よう』とします。

私は、ブクマ見たりアンテナ見たりニュース見たりとか、本を読んだりテレビやネットと向き合っている時にいつもこのシマウマ男のことを思い出します。
とにかく私は見ていて、そのとにかく見ているときには、『ああ今自分はただ見ているだけだなあ、世界に何の影響も与えず、ただ見ているだけなんだ』と思って自己嫌悪したりするのですが、この世界は実はクチュクチュバーンのまっただ中であるとするなら、それを見られる立場にいるなら、見なければいけないのかな、とも思うのです。その時、私はシマウマ男になっています。

またシマウマ男は『意味あんのかよ、こんな世界!』と叫ぶのですが、まったくもってこの叫びは、自分が『見るだけの存在』であるときにこそ、目の前に広がる世界に対して吐く悪態だろうと思います。私もよく叫びます。(この叫びは『クチュクチュバーン』を読んでいて読者が抱く感想ともダブるわけで、いわば『見るだけの存在』の入れ子状態になります。)

しかし、その一見意味不明な世界に対して、最後までコミットしようとしないシマウマ男(私)だからこそ、その世界の存在意義がわからないんじゃないかとも思うわけです。
結局シマウマ男(私)は事象を『表面的に見た』に過ぎず、それではクチュクチュバーンの本質はいつまでたってもつかむことができないのではないかと思うのです。

SFという形をとっていましたが、現代人の『とにかく見る、見ることが使命』となってるような状況を寓話的に描いたのかも知れないと思いました。

まれにみるエログロナンセンスで、同時に哲学的というなんとも不思議な一冊です。

クチュクチュバーン (文春文庫)

クチュクチュバーン (文春文庫)